月姫
 (C)TYPE-MOON



「月蝕」アフターストーリー
特別な一日

written by Q-san





 遠い夜空を、ずぅっと見上げていた気がする。


 風が微かに吹いていた。

 風は、どこまでも続くような草原をそよがせ遠くへ流れて行く。
 見上げた先には、薄い雲の向こうに霞み見える青い月。
 息する大気は冷え澄んでいるが、座る大地は暖かく居心地は良い。

 隣には他愛ない会話を、でも忘れられない話を交わす先生が居る。

「―――ほんとに君は、素敵な男の子になったみたいだ」

 先生の笑顔は眩しくて―――


 眩しい―――



 ふと、薄目を開ける。

 明るい朝日の差し込む窓辺に、人影が見える。

「…お目覚めですか? お早うございます。志貴さま」
 いつもの、聞き慣れた静かで落ち着く、翡翠の声。
 窓のカーテンを開けてくれていたところの様だ。
「あぁ、おはよう。翡翠」
「…ん〜にゃ…」
 いつもの挨拶を返した次の瞬間、まるで轟音響かせるナイアガラ大瀑布の勢いで、俺の血液が上半身からどこか底知れぬ奈落へなだれ込む。
 全てを呑み込む暗黒の絶望にまみれながら見下ろせば、毛布の下にシーツとは違う白いモノが隠れ見える。
「どうかなさいましたか? 志貴さま」
「い!いや! 何でもない!…です」
「そうですか? お身体の具合は大丈夫でしょうか? お顔色が優れない様ですが」
「だ、大丈夫大丈夫! えぇ〜と、そう!も、もぅ起きるから着替えるから、すぐ朝食に行くよ!」
「……わかりました。お着替えはこちらに。それでは、失礼致します」
 メイドの鏡のような、俺にはもったいない礼儀正しさで、翡翠は寝室から退出して行く。
 心なしか、少し目が鋭かった様な気がした。

 …翡翠の足跡が遠くなり聞こえなくなるのを確認して、静かに俺はベットから降りる。
 そのままクッションマットを脇から掴み―――思いきり力任せに投げ飛ばす!
 日本男児伝統の怒り技「ちゃぶ台返し」ベッドバージョン!
「何してやがんだアルクェイド―――――!」
「う!きゃぁ―――――!」
 投げ飛ばした毛布やクッションの山の中からアルクェイドが這い出して来る。
「いったーい! 何するのよ志貴!」
 白い服を着た、金髪の吸血姫。それがアルクェイドだ。
「だからそれはこっちの台詞だ―――――!」
 火山噴火は火砕流のごとく怒り責める俺を見てか、アルクェイドは今這い出して来たクッションの上に座り込んで顔をふせる。
「だって! だって、せっかく来たのに志貴ったらぐっすり眠ってるんだもん。それ見てたらわたしも眠くなって来て、志貴の隣って暖かいだろうなぁって、思ったから…」
 口元を隠すかの様に、指を絡ませながら答えるその口調は段々と細くなって行く。
 我ながら言い過ぎたかもしれない。
それに今日は、人間にとって特別な日だって聞いたから…
 思えば今朝、懐かしい夢を見れたのも、隣で眠るアルクェイドのほのかな暖かさのおかげだったのかもしれない。
 ふと、そう思ったら、俺の怒りは冷めていた。
 この所、自分から連絡をとろうとしてなかった俺も悪い。
「あ―――、アルクェイド? その、だな、屋敷に来ちゃいけないって言ってるんじゃないんだよ。夜中に窓から忍んで来るじゃなくて、ちゃんと正面の玄関から…」
「でも、屋敷は妹がうるさいんだもん。昼間は学校で、シエルが張りついてるし。志貴ったら最近、全然わたしと遊んでくれない。さびしいんだよ……わたし」
「そんな事、我が遠野の家の者にはまったく関係ありませんわ!」
 と、廊下の方から断じて言い切る声がする。
 振り返れば、いつの間にか開いたドアの向こうに、私服姿もフォーマルな完全無欠のお嬢様、妹の秋葉が腕組み仁王立ちしている。
「今夜、兄さんとは大事な用事があって、屋敷に帰って来てもらわなければ困るんです。貴方だけに構っている暇はありません!」
 宣言しながら、足音高く部屋に踏み込んで来る。
「まったく!朝食に来ると言いながら、居間に来るのが遅いと思えば!」
 怒りの為か、凛々しいその顔は紅潮し、黒く艶やかに背中へ流れる長い髪すらも紅く見える様だ。
 ……気のせいだよな。     多分。
「いいじゃない! 好きな人の所に行くのは、わたしの勝手でしょ」
 敵の出現の為か、アルクェイドの視線が険しくなる。
 また、人外魔境の大決戦になるかと思うと、気が重い。

(……志貴さん、志貴さん……)
 ふと、微かな呼び声が聞こえた。
 俺の着替えと鞄を抱えた和服に割烹着姿の琥珀さんが、ドアの影にしゃがんでこっそり俺を手招きしている。
 俺も併せて、こそこそと琥珀さんの所へ向かう。
(……志貴さん、隣の部屋の鍵は開けておきましたから、お着替えはそちらで……)
(……ありがとう、琥珀さん。じゃ、こっそりと)
(志貴さんも大変ですねー。翡翠ちゃんが「志貴さまのベッドカバーがちょうど二人分膨らんでいました」って言ってましたから、また一騒ぎあるかな〜とは思いましたけど)
 部屋の中で騒ぎたてる二人を置いて、俺達は部屋を忍び出る。
(あ、は、は、やっぱり翡翠にはバレてましたか)
 俺達は腰を落として背を低くしたまま、廊下を隠れ進む。
(ダメですよー。翡翠ちゃんは志貴さんの事なら全部見つめていますから、すぐ分かっちゃいますよ。……はい、どうぞ)
 琥珀さんが音も立てずに、空き部屋のドアを開けてくれる。
 顔を赤くしてるのを見られないように、俺はすぐに部屋に入って着替え始める。学校のHRまであまり余裕がない。
(……志貴はわたしの事嫌いじゃ……ってくれ……)
(……今日と……独り占め……ませんわ……)
 壁越しにまだ二人が言い争っている声が聞こえる。
 そんな中、ドア越しに琥珀さんが話し掛けて来た。
「志貴さん、今日は学校が終わりましたら、夜遊びしないで早く帰ってきて下さいね。さっき、秋葉さまと今日はお屋敷でお祝いをしましょうと、お話してたんです」
「え? 何の?」
「……それは、秘密です。ご学友の方々にも先程、ご招待のお電話致しましたから、志貴さまからもお誘い願いますね」
 琥珀さんは何を成すにも相変わらず手際が良い。
「学友? 先輩と有彦だね? 分かったよ」
「よろしくおねがいします。ではわたしは朝食を手早く取れる様、準備してまいりますね」
 そう言って、琥珀さんはドアから離れて行った。
 ……そう言えば、今日は用事があるとかで、秋葉は学校を休むと言っていたっけか。


 まぁとりあえず学校だ―――――



―――――○―――――○―――――○―――――○―――――○―――――



「よぅ!おはよう、ご主人さま!」

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、学食へ駆け出そうとした俺の腰は、その一発で砕け散った。
 午前中の授業には顔すら出さなかった、オレンジに染めたヘアカットも眩しいゴーイングマイウェイ極まれりの悪友、乾有彦。
 その有彦が教室に入っての、第一声だった。
「……お前なぁ、お兄さんに飽き足らず、今度はソレか?!」
「いや〜今朝は驚きましたよ遠野先生。朝一の突然の電話、非礼を詫びる丁寧さ、しかも可憐な女の子の声で、遠野の家に仕える者ですが……ときたもんだ。さすが丘の上のお屋敷に住むだけはあるな」
「琥珀さん、いったいどんな電話をしたんだ?」
「……琥珀さんでしたね、あの方は」
「うわぁ!シエル先輩?!」
 音もなく気配もなく静かに、後ろにいつの間にか先輩が居た。
「あ、酷いですよ遠野くん。こんな可愛い女の子が居るのにその驚き方は」
「ああ先輩が可哀想だぜ……って、電話って先輩の所にも?」
「はい。少々祝い事を行ないますので、ぜひいらして下さいと。何のお祝いでしょう?」
「俺もよく分からないんだ」
 と、そんな答えを返した俺を、有彦がちょっと間の抜けた顔で見つめる。
「……どうした? 有彦?」
「ん、いや……」
 抜けた顔もつかの間、顔中に笑みを浮かべて先輩に手招きする。
「先輩、先輩」
「ぅん、何ですか?乾くん」
 先輩と有彦が俺の机から離れて行く。
「本人が忘れてる、遠野の恥ずかしい、ヒ・ミ・ツ★」
「うわぁぁ、ぜひぜひ教えて下さい! それで遠野くんを脅迫しちゃいましょう」
 先輩も顔を赤くしながらも楽しそうに、有彦と内緒話モードに入って行く。
「って、手前ぇら何の話しをしてるんだ―――――!」
「「きゃ―――――!!」」


 騒がしい、昼休みも過ぎて行く。
 三人で騒ぐいつもの日常。



―――――○―――――○―――――○―――――○―――――○―――――



 ……結局、有彦は俺に口を割らなかった。
 先輩と連れ立って「遠野くんより先に屋敷に来るよう呼ばれているから」と、授業が終わるいなや駆け出して行ってしまった。
 俺は変に走って貧血を起こす訳にもいかなかったので、屋敷への坂道をゆっくり歩く。

 夕日が、街を真っ赤に染めている。

 普段は青空に白く映える屋敷の壁も、この時ばかりは夕暮れの中に等しく周囲に溶け込んだ景観になって見える。
 その門を押し開け庭に入る。

 以前は翡翠をずっと門前で待たせてしまったっけ。
 あの時から、どのくらいの時が巡ったのだろうか。




 広い庭を歩き、屋敷の前に立つ。


「ただいま―――――」


 ドアを開ける。


 ―――――瞬間―――――




 パパン!パパドパッパパン!!
「Happy Birthday 志貴!」
「お誕生日おめでとう、兄さん!」
「……おめでとうございます、志貴さま」
「志貴さん、おめでとうございます★」
「遠野くん誕生日おめでとうございます!」
「うらやましーぞ!この野郎!」
 ぼふっ!!

 激しいが軽い炸裂音、そして少し遅れて派手なリボンと紙吹雪の壁が俺にぶつかって来た。
 視界全面を極彩色が群れを成して埋めつくす。


 ―――――何がなんだか良く分からない。


「……どしたの? 志貴? ボケッとしちゃって?」
 両手いっぱいに発射済みのクラッカーを山と抱えて、アルクェイドが紙吹雪の山を乗り越え俺に寄って来る。
「あーぱー吸血鬼が変な所に命中させたんじゃないでしょうね」
 黒い長柄の神具か何かに、鈴なりにクラッカーを付けたシエル先輩が続いてドアから外に出て来る。
「秋葉さま、やはりやり過ぎでは……?」
「いいのよ! こういうのは盛大に越した事はないわ!」
 小さなクラッカーを一つだけ手にした翡翠に、通常の10倍くらい巨大なソレを手にした秋葉が答える。
「では、わたしは料理の仕上げに行きますねー」
 マイペースに琥珀さんが言い、奥に戻る。
「くそー! 誕生日をこんな綺麗どころに祝って貰えるなんて、うらやましいぜ遠野!」
 夜空に有彦が吠える。


 ―――――さっきの、皆の台詞を反芻する。

(Happy Birthday 志貴!)
(お誕生日おめでとう、兄さん!)
(……おめでとうございます、志貴さま)
(志貴さん、おめでとうございます★)
(遠野くん誕生日おめでとうございます!)
(うらやましーぞ!この野郎!)

 最後の一つだけニュアンスが違うが、今日が何の日か思い出した。


 ―――しかし―――


「なにしやがんだ―――――!!」
 バサァッ!!
 眼前に盛り上がっていた紙吹雪の中に両腕を突っ込み、アルクェイドとシエル先輩の方へ一山放り投げる。
「志貴がキレた―――――★」
「お返しです遠野くん!」
 すかさず、二人もやり返して来た。
 雪合戦よろしく紙合戦だかなんだか、3人大声で騒ぎ出し
「助太刀するぜ!先輩」
 有彦も負けじと、色々抱えて跳び込んで来る。
 始まってしまった馬鹿騒ぎは止まらない。



―――――○―――――○―――――○―――――○―――――○―――――



 ……ただ、その輪に入り損ねた者が居た。
 あっと言う間に童心に帰りまくって騒ぐ四人を、唖然と惚け見る二人。
 悲しきかな、大人の常識と淑女の礼節がその身に染み着いている、秋葉と翡翠。
 楽しげに騒ぐ四人を見つめるその瞳は、初めこそ驚きと呆れのみ宿していたが、次第に妬み、そして忘れられている事の怒りへと剣呑な輝きを灯していく。

 秋葉の髪はすでに真紅に染まり、妖しく波打ちながら周囲の空間へ広がって行く。
「……翡翠。 第二射、用意良い?」
「第三、第四射、他にも準備してございます。存分に」
 涼しげに答えた翡翠の傍らには、あの特注特大凶悪クラッカーが縦横に並んでいた。
「ふふ、準備の良いこと」
 広がる秋葉の紅い髪は、それらを幾つも捕らえ持ち上げ、中空に固定して行く。
 たった一つの目標に向けて。

「翡翠、秒読み」
「……3」

 色鮮やかな紙にまみれて遊んでいる四人は、いつの間にか志貴&アルクェイド VS シエル&有彦と言った雰囲気になっていた。

「……2」

 アルクェイドが有彦の両脚を捕まえ、いともたやすく軽々と振り回し、そのまま助けようと近づいたシエルへ投げ飛ばす!

「……1」

 やり過ぎ!とアルクェイドを叱った志貴が、シエル達を助け起こしに向かう。
 その後ろをアルクェイドが拗ねながらもついて行く。
 四人が1ヶ所に集まった瞬間―――

「0――!」

 ―――再び響く炸裂音。
 白、赤、碧、黄、青、橙、紫、彩り鮮やかな吹雪が、宵闇の星空に舞い散って行き―――

 遠野の屋敷の宴は終わらない。



 胸踊るような事、頭を抱えてしまう事、楽しい事、悔しい事、喜怒哀楽悲喜交々。
 まぁこれからも色んな事があるだろう。
 でも、皆が居る事、生きて頑張れる事。

 俺はきっと、これからも楽しい生き方が出来るだろう。




                                         Fin



―――――○―――――○―――――○―――――○―――――○―――――



あとがき


 はじめましてQさんと申します。
 今回の月姫のSS、楽しめて頂けましたでしょうか?
 私自身はゲームの二次創作小説は、本編でやっと3作目です。
 拙いところもあったかと思いますが、ご容赦下さい。
 他にも、私はまだ本編、半月版、黒本までしか所有してないものですから、まだ知らない設定とか他の方の作品にかぶったりしてしまうのが、非常に怖かったり。

 さて今回は、志貴くんはいつも周囲の皆の騒ぎで苦労してそうなので、誕生日くらい普通(?)の人の幸せをちょっとでも書けたらなぁ、と思ってプロットを練ってみました。
 色々各キャラクターの事考えるのは、皆個性があってとても楽しいものでした。

 とは言え、ただほのぼのでは月姫は終わらないでしょう(笑)
 続きまして、おまけをどうぞ。




―――――○―――――○―――――○―――――○―――――○―――――



おまけ
  あるいは誰かの受難の夜


「……仕込みましたね? 姉さん」


「えー? 何の事でしょう? お料理のダシや隠し味の事なら、仕込んで当然ですよ。翡翠ちゃん?」
 いつもと変わらぬ笑みを浮かべる琥珀に、翡翠がその青い瞳を冷たく鋭く輝かせて、詰問している。
 その傍らには、真っ赤な顔をしたアルクェイド達が酔いが回ったのか、眠り込んでいた。

「百歩譲って、アルクェイドさまが早々に酔い潰れたのは、飲食の経験の少ない事からその可能性はあるかもしれません。しかし人生経験豊富なシエルさま、ましてやザルの秋葉さまがこれほど早く酔いが回られるのは、見た事がありません。 ……重ねてお聞きします。飲食物に何か仕込みましたね? 姉さん」
 琥珀はその微笑みの表情のまま、立てた人差し指を頬にあて、困ったように答える。
「やっぱり翡翠ちゃんには隠し事は出来ませんねー。でも仕込んだなんて人聞きの悪い。ちょっと秋葉様にお出ししていたウィスキーを、途中で水割りからウォッカ割りにしたりとか位で、別にお料理には薬なんて仕込んでないですよ」
「ウ、ウォッカって?! あんな火がつくようなものを?!」
 翡翠は狼狽し後ずさる。
「今日は志貴さんの特別な夜ですもの。たまにはわたしも、志貴さんの優しさを独り占めしてみたいですわ」
「……特別……って、もしやアルクェイドさまが、志貴さまの御誕生日の事を知っていたのは……?」
「あらあら、さすが翡翠ちゃんにはどんどんバレちゃいますね〜。実は、今日だけでもアルクェイドさんやシエルさんと喧嘩しなければ、志貴さまに好印象を得られますよ、と秋葉さまにお誕生日会のご提案をしたのも、わたしなんですよ」
「そして、あの三人を一ヶ所に集め、油断させ一網打尽にした訳ですね」
「さぁ、どうかしら★」
 笑う琥珀は謡うように答える。

 部屋が暑いのか、翡翠の頬を汗が一雫つたう。
「でも志貴さまは、わたしがお護り……う……く」
 それまで毅然としていた翡翠が、目眩いでもしたのか膝から崩れ、床に手をつく。
「くすくすくす……ちょうど、効いて来た様ですね」
「そ、そん……な、わたしは、料理には……手は」
「だって翡翠ちゃんは完璧にメイドをこなしているもの。警戒してる時には、さすがにわたしも仕掛けられないわ。だからさっきお茶の時間に遅効性の睡眠誘導剤を、ちょっとね」
 言いながら、袖の中から小さな薬瓶を取り出す。
 褐色の液体が、その中で静かに揺れていた。
「手段とリスクは比例するもの。大事な一手こそ、最小の仕込みで最大の効果を、ですわ」
「……姉さ……ん……」
 翡翠はそれを目にする事もなく、眠りに落ちて行く。

「さて、あとはさっき席を立った志貴さんが戻ってくれば……そう言えば、ずいぶん遅いですわね?」
 きょろきょろと見回す琥珀の視界に、こっそり部屋を忍び出ようとしている有彦の臀部が映る。
「あ、乾さん? 志貴さん知りませんか?」
「ひ、ひゃい!」
 有彦の背筋がバネの様に跳ね上がり、裏返った声の返事が返る。

 有彦はもう理解してしまっていた。
 ここ数時間の彼女の行動。
 たった今のやりとり。

 今朝、可憐な声で電話を掛けて来たこの少女が、純真無垢で汚れなき、華の様な微笑みの似合う美しい天使―――などではなく、人間の心の暗部を遥か昔から突き付けられ、また体現して来た、笑う仮面の向こうに闇を秘めた妖しき魔女、であった事に。

「え、えっとさっき……酔いを覚まして来るって言ってたから、その、しばらく戻らないんじゃ……ない、でしょうか……」
 普段は強気で傍若無人な有彦も、半ば狼狽えながら答える。
「あらあら……はぁ〜〜〜、じゃあ今夜はもうダメですね。志貴さんお酒に弱いですからねぇ。せっかく志貴さんの分のお酒は、弱いものばかり選んでいた筈なのに……」
 心底残念そうに、片手を頬につけ深々とため息をつく。

「どうしてあの方は、わたしが苦労して一杯頑張った事から、最後にうまくするりと抜けてしまうのでしょう」
 ふと、その伏せた瞳に悲しげな寂しげな影が映る。
 今までの貼りついた様な笑みの印象から、一転したその雰囲気。
 有彦は、動く事も忘れて、何故か見入っていた。

「しかたないですね!」
 有彦が見とれていたのもつかの間、琥珀は突然気合を入れ直す。
「みなさん、もう潰れていらっしゃいますし、わたしもヤケ酒です!」
 そのまま琥珀の目線は、するるるると、有彦の方へ向く。
「……つきあって頂けます? 乾さん」
「え……え……え?」
 我に返った有彦は、ある事に気がつき愕然とした。
 先程の、琥珀がため息を吐いていた、もの思いにふけった瞬間こそが、この場から脱出する最後の機会であった事。

 もはや逃げる事は、かなわない。

 琥珀の右手が、再び左の袖に入れられ、今度は一升瓶が引き出されて来る。
「純米酒、鬼殺し。わたしのとっておきの銘酒です」
(あああああ、何だって俺は遠野のヤツのコップに適当に酒を注ぎたして、ちゃんぽんなんかにしたんだ?! 言えない! 知られたら……消される?!)
 思わず一歩下がったその脚が、膝の裏で何かに突き当たり、すとんと腰が落ちる。
 そこには、誰が座っていたのか、椅子があった。
「あらあら呑む気一杯ですね〜。じゃぁ小さなコップなんかじゃなくて、ジョッキに注いでしまいましょう。お酒も沢山ありますからご遠慮なく★」
 震える有彦の目の前で、ずしんと重々しく置かれた巨大なジョッキ。
 そして、その中になみなみと満たされて行く透明な酒を見つめながら、有彦は自分の体の中には、真っ黒い何かが次第に満たされて行く様な……そんな思いで溢れていた。


 これからも気苦労の絶えない遠野への同情。
 今から始まる我が身の不幸。


 ―――人はそれこそを、絶望と呼ぶ。




                                  The END


―――――○―――――○―――――○―――――○―――――○―――――